あの世界の片隅で

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増田貴久主演舞台「フレンド-今夜此処での一と殷盛り-」感想

 感想を文字にして残しておきたいと思いながら、気づけば観劇してからもう3か月が過ぎてしまいました。今更感も否めないけれど、先日舞台雑誌を読んでスイッチを押されてしまったので、やっぱりまとめておきます。観劇前も後もどなたの感想も読んでいないし、せっかく手に入れた戯曲にも目を通さず、これを書くにあたってようやく台詞の確認をしたのだけれど、それは自分で実際に観て聴いて自分の中からだけ出てきた思いがどんなものかが知りたかったから。というわけで細部におかしいところや舞台から離れた実際の出来事とは違うところがあると思いますが、あの日私が受け取った情報と感じた世界だけを踏まえて書きます。そして、物語のすべてについて書き始めるときりがないので、主に中也と喜さんの別れの場面についての感想です。

                                       

  舞台は2日にわたり連続して2回観た。*11回目に観た後の感想は、これは血のつながりのない人々による「家族」の物語だというもの。秋ちゃんが養女になったり喜さんと結婚したりするのはその端的な例だけど、中也は喜さんを家族として見ていたんだなと私には思えた。もっと言うと喜さんに母親(時に父親)を見ていると。

 喜さんは出てきた瞬間から最後の最後まで本当に素敵で素晴らしくて、だれからも愛される、だれもが気にかけずにはいられない魅力にあふれた人だった。特に印象的だったのが、ていちゃんが喜さんを見る目。喜さんが中也ともめたり周囲の人に中也を悪く言われてかばったりしている時、ていちゃんはいつも喜さんを心から心配している目で見ていて、その目を見るだけで喜さんはみんなから愛されて育ってきた人なんだなということがひしひしと伝わってきた。そして喜さんに出会うまで、そういう目で見てくれる人が中也にはいなかったんだろうなと。

 だけど誰もが愛し大切に思っている喜さんがそういう目を向けるのは自分だけという、どこか優越感のような思いが中也にはあったんじゃないか。子供が母親に兄弟の中で誰が一番好きか尋ね、自分が一番と言ってもらいたがるような、そして母親が優しい嘘であなたが一番と言ってくれたら感じるような、そんな幼い欲求、優越感や喜び。どんなに自分が喜さんを振り回したり迷惑をかけたりしても、自分が素晴らしい詩を書けばいつだって、そしていつまでも喜さんは喜びほめてくれる、詩が世間に認められなくても自分の才能を信じて励ましてくれる、彼が自分のそばから離れていくことなんてないという信頼もあったと思う。子供が母親はいつまでも自分のことを見て愛してくれると信じ切っているように。

 だから喜さんが秋ちゃんと結婚する、筆を折ると言ったときの中也は見ていて辛かった。絶対自分の世界からいなくならないと信じていた「母親」が今自分に決別の言葉を告げている。あまつさえ他に「家族」を作ろうとしている。中也が大声で喜さんをなじればなじる程、それは母親に僕を置いて行かないでと泣き叫んでいる子供の悲鳴にしか聞こえなかった。中也が全身で怒りを表現する様子も何とかして母親を行かせまいと暴れる子供にしか見えなくて、その痛々しさが辛かった。それに対し喜さんが中也に語る言葉は本当に美しくて、その美しさゆえの残酷さが中也に矢のように突き刺さっていく。

「僕はこれから船を漕ぎ出すんです。大切な人を乗せて。この世の荒波を越えて行きます。あなたが作る、櫂歌を口ずさみながら。一日働き疲れたら、あなたの作った、美しくやさしい夜の歌に癒されて、大切な人とともに明日のために眠ります」*2

 こんなに美しくて残酷な別れの言葉ってあるだろうか。喜さんが言葉を紡ぐ度、中也に突き刺さるその矢の痛みに私の心も悲鳴を上げていて、もうやめてあげてと何度も懇願した。喜さんの方には中也を傷つけようなんて意図は全くないからこそ、尚更その美しくて優しい言葉は残酷なまでにきっぱりとした別れを告げていて、こんなこと言われたらそれはもう黙り込むしかないよ、喜さん…というのが初回観劇時の私の気持ちだった。

 だけど2回目に観た時の感想は自分でも不思議なぐらい全く違うものだった。1回目は23列やや下手寄りで舞台の全体が一目で把握できる、2回目は2列目ほぼ中央で役者さんたちの額の汗まで見えるという全く違う視点からの観劇だったことも一因かもしれないし、実際に役者さんたちの演技が違っていたのかもしれないし、それが舞台の面白さなのだろうけど、ほんの19時間前に観たのと同じ舞台だとは思えないぐらい、喜さんに対する中也に「母親を欲する子供」は感じなかった。

 2回目観劇時に私の心にあったのは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」。母親の本当の幸せのためならどんなこともする、だけど本当の幸せって何だろうと語るカムパネルラ。彼との旅がただ嬉しくて、僕たちどこまでも一緒に行こうねとジョバンニは言ったけれど結局それはかなわなかった。カムパネルラと喜さんが目指した幸せもたどった道も全く異なるものではあるけれど、友達と別れそれぞれの信じる道を進んでいく。ジョバンニも中也もその別れに泣き叫ぶけれど、やっぱり自分の道を進んでいく。前日にあれほどまでに感じた「親子」はどこにもおらず、舞台の上の中也と喜さんはお互いを思い合う「フレンド」だった。

 ここまでは中也目線の感想。初日に私は喜さんを取り巻く人の目でしか舞台を見られなかった。喜さんを愛し心配する周囲の人々の目、喜さんに恋する秋ちゃんの目、そして中也の目。だけど2回目は喜さんの目で中也を見ることもできた。ようやく詩を認められ、これから華々しく活躍していくであろう友に対し、賞賛と祝福と決別の言葉をかける喜さんを見ていた時、ちょうど読んで間もなかったこともあったとは思うけれど、加藤シゲアキ作「染色」が頭をよぎった。相手を愛し畏怖し、自分との歴然とした差にひざまずきながら感じる、自分は到底あちら側には行けないのだという悲しみとあきらめと嫉妬、そして受容。そんな思いを作品に書いた彼はこの舞台を観て、この喜さんに触れて何を思ったんだろう。観劇後ずいぶんたってからそう言えば『ピンクとグレー』もそうだなと思い至り、ますますシゲアキ先生の感想が聞きたくなったけれど、彼がそれを詳しく語ることはこの先もきっとないんだろうなとも思う。

  舞台中はこんなことをぐるぐる考えながら観ていたので、号泣した、ハンカチでは足りないからタオルを持って行った方がいいという感想も結構目にしたけど、私は結局ハンカチもいらないぐらいだった。秋ちゃんが養女になるシーンには勿論ほろりとしたし、最後、仲間が集まるフレンドが焼け跡に現れる場面には胸が熱くなった。かつてのフレンドの様子とは異なり、そこにいるみんなが幸せで楽しそうに笑い語り合っていて、その中心には中也がいる。そしてみんなで中也の詩を朗読する。これが喜さんの理想のフレンドだったんだ、喜さんはこういう世界に中也を連れて行ってあげたかったんだ、喜さんの理想は現実にはならなかったけど、聴けないレコードを持って逃げてきた大切な人と彼女との間に生まれた子供たちを守るという新しい夢をかなえるために喜さんはこれからも生きていくんだなと思うと涙がにじんだ。だけど色々考えさせられたり突きつけられたりして(自分が反抗期の息子との関係に悩んでいたこともあり)、感動しつつも色々な宿題をもらったような気持ちだった。もっと純粋に話に入り込めたらいいなと思う一方で、多分私には対象が小説でも舞台でもこういう自分に寄せた見方しかできないんだなというあきらめもある。まあいいか。

 

 上演前、増田座長は至極心配していたけれど、観劇中一度たりとも「まっすー」を感じたことはなかった。彼は最初から最後まで「安原喜弘」という一人の男性としてそこにいた。たたずまいも仕草も声もすべて。そこにはアイドルオーラの欠片もなくて、しばしば背景の一部にもなってしまうほど。優しい人、周囲のだれからも愛される人など自分との共通点も多い役だったと思うけど、そこにいるのはファンが見慣れているのとは全く違う人物だった。だから私もどんなに近くにいても彼だけを目で追うこともなく、秋ちゃんのけなげな可愛さにキュンキュンしたり他の役者さんたちそれぞれの演技に集中して堪能できたりした。感想用紙にも書いてきたけど、レコードを喜さんと頬で挟むシーン、手紙を返してもらおうと飛び跳ねるシーン、喜さんの代わりに悲しみと怒りを爆発させるシーン等々秋ちゃんがただひたすらキュートで魅力的で大好きだった。喜さんが秋ちゃんを好きになって大切にしようと思う気持ち、心から理解できる。他の役者さん達についてもその素晴らしさを書きたいけど、きりがないからこの辺で。とにかく彼ら「フレンド」チームにしか作れない素敵な舞台だった。

 最後に、増田貴久さん、素敵な世界に連れて行ってくれてありがとうございました。次回も楽しみにしています。

                                       

 よかった。何とか書き上げられた。ようやくこれから他の方々の感想を巡る旅に出られます♡当分仕事忙しいけどー!

 

*1:2014年11月5日(水)19:00~/6日(木)14:00~

*2:戯曲「フレンド‐今夜此処での一と殷盛り‐」横内謙介作  より