あの世界の片隅で

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小山慶一郎主演舞台「グレート・ネイチャー」感想

 舞台「グレート・ネイチャー」を2015年10月10日(土)に観てきた。幸運に恵まれてマチネもソワレも観劇できたのだけど、話に聞いていた通り面白くて笑いっぱなしなのに難しい、でも実はシンプルなのかもしれない内容だった。マチネを観た時には頭の中に「?」が飛び交っていて、じーんと来た場面や妙に心に引っかかる言葉はあったものの全くと言っていいほど理解できていなかったと思う。じゃあそれがソワレで理解できたのかというと、やっぱりわからなくて、でもやっぱりじーんと来たりさっき引っかかった言葉がさらに引っかかったりしている間に舞台はあっけなく終わってしまった。

 帰りの電車の中で色々と考えているうちに断片的に形が見えてきたこともあれば、やっぱり全然わからないこともあって、でもこれは長々と考えていたってわかるようになる類のものではないんじゃないかなと何となく感じている。それは忘れてしまって何年も経ってから急に答が降ってくるようなことかもしれない。だから自分の中に今あることだけをとりあえず書き出すことにした。メモを取りながら観ていたわけではないので、細かいところは記憶違いが多々あるだろうし、記憶の中の時系列もぐちゃぐちゃだけど思いつくまま書いていくので、まとまりのない冗長な文章になると思うけれど、ご容赦ください。

 

 私が事前に入れていた情報は発表されていた以下のあらすじと、観劇した方々の「面白くてたくさん笑ったけど難しかった」という感想だけ。

(公式サイトより引用)

           なあ、あれはほんとうにあったことなんだろうか?

               それとも俺たちはあの山奥で、

           ただ、きつねに化かされてただけなんだろうか?

School of Nature」通称 SONと呼ばれる山奥の学校に赴任してきた教師の篠崎(小山慶一郎)。
そこは、世の中に見放された問題児ばかりが集まる伝説の学校だった。先輩教師(久ヶ沢徹中山祐一朗)や生徒(谷澤恵里香)の振る舞いや授業に戸惑いながらも、日々奮闘する篠崎。青春の輝き、そして生きることのイミを問う壮大な授業が始まる……。

  

    問題児ばかりが集まる、と言いながら出てくる生徒はマックス( by谷澤さん)という女の子だけ(最後にわらわらと問題児集団が出てはくるけど)。そしてその他の主な登場人物は篠崎先生(by小山さん)と真田先生(by久ヶ沢さん)と長谷川先生(by中山さん)の3人だけ。SONでの物語と10年後の物語が錯綜しながら進んでいくのだけれど、どっちも訳がわからないことだらけ。

 SONに赴任することになり、バスに乗ってやってきたものの降車後どこに行けばいいのかわからない篠崎先生。そこに突如、牛が現れて糞をしまくる。(この時点でもうこの舞台の訳わかんない感じが爆発してる)。訳のわからない会話が続いた後いきなり真田先生登場。急に座り込んで動かなくなった牛を「自然にさわって」と篠崎先生に要求。何度かやってみるけれど、それは自然じゃないと却下される。でも篠崎先生と同じように(観客と篠崎先生にはそう見える)真田先生がさわったら動き始める牛、実は長谷川先生。篠崎先生が「?」だらけで頭がグルグルしてるのと同じように私もグルグル。でもタイトルにもなっていることだし、「自然って何」がテーマなのかな、ということだけは何となくわかる。

 突然現れたふたりがSONの先生だとわかり、自己紹介を始めようとする篠崎先生。でもそれも阻止されたり「山田山」という名前で勝手に呼ばれたりする。ふたりは篠崎先生を巻き込みながら訳の分からないやりとりを楽しそうに続けていく。苛立って「それはこっちのセリフですよ!」と言った篠崎先生に「セリフ~?せーりーふーー???え、なに、これって演劇なの?じゃあここは舞台なの?この地面の傷はバミりですかあ?」と返すふたり。この辺り、細かく書ききれないけれどたくさんのギャグが次から次へと繰り出されるから、観客は笑いの連続。篠崎先生のボストンバッグの中にまたボストンバッグが入っていてマトリョーシカ?って聞かれたり、それどこで買ったの?いくらだった?の質問にドンキ!とか無印!とか答えたり。every.ネタも入ってくるし、バミりに書いてある名前が加藤シゲアキかと思わせておいて志茂田景樹だったり。観客席は裏山、観客は動物たちの設定で、ふたりの先生が観客に絡んできたりもする。そしてなぜか急にものまねをさせられる篠崎先生。もう書ききれないぐらいたくさん笑うポイントがあって、しかも今書き出したところで面白くない。とにかくそういう現実なのか虚構なのかわからない、あえてわからなくしているのかもしれない場面が続いて行く。舞台の上の人が「これは舞台だから」って言っちゃう、実は自分たちが演劇の中の人物だってわかってることを匂わせる手法なのか、それも実は何か意味があるのかもわからない。ただただ面白くて笑いながらも狐につままれている気分をずっと味わう。そういうドタバタコメディーの中でなぜか「山田山」と別名で呼ばれ続けた篠崎先生が最後に「しのざき!しのざきでし!(です、じゃない。これ、観た人はわかる面白さ)」って名乗る。ここでようやくそれを受け入れるふたりの先生。真田先生が言う。「これが自然に知り合うってこと」。初対面の人達が定型的な自己紹介をして始まるのが「知り合う」ってことじゃない、これこそが自然に知り合うってこと?こんな感じで意味の分からないけれど笑ってしまうやり取りの中に必ず「自然とは」という命題が含まれている。

 

 時系列をよく覚えていないけれど、SONの意味は何だと思うか聞かれて篠崎先生は「School of Natureだから自然の学校」と答える。でもそれに対するふたりの先生の答は「自然に学校」。これ、最初に聞いた時は意味がわからなかったけど、やけに心に残った言葉だった。でも2回聞いて何となく思ったのは、「自然の学び」っていわゆる学校という建物の中で教師が行う授業からではなくて、生徒自身の「知りたい、身につけたい」という自発的欲求が生まれるのを教師がうまく促したり、その生まれた欲求を満たす方法を考える手助けをしたりすることからしか得られないものだということ。だからSONは「自然に」学校。

 実はこれは私自身の考えではなくて、仕事で少しだけ読んだ本*1に書いてあったことから思ったこと。要約すると「教師は勉強すること自体が快楽であること、知識や技能を身に付けること自体が快楽であること、心身の潜在能力が開花すること自体が快楽であることを、自分が体現したり素材になって見せたりすることで、子どもたちに実感させることが仕事だ。子供たちは『気分がいいこと』には敏感に反応して、自分もそのような知識や技能を欲望するようになる。そういった欲望を起動させることこそが本来の教育の目的だ」。この文章、実は今まで何となくしか理解してなかった。でも今回の舞台を観終わった時にすとんと腑に落ちた感じ。ふたりの先生たちが伝えたかった「自然の学び」ってこういうことなんだと。

 だけど最初、篠崎先生にとって「学び」とはきちんとした建物の中でいわゆるきちんとした授業をきちんとした教師が行うことによって得られるものだったんだと思う。問題児マックスとの接し方もふたりの先生の見様見真似だったり、どこかで見たような熱血教師風だったりして、「こうしなければならない、こうあるべき」という考えがある篠崎先生。だからいつもどこか不自然。彼にとっての「自然じゃない」。ふたりの先生の訳の分からない授業?に接し、今までの自分を壊そう、想像力が大切なんだと色々とチャレンジする篠崎先生の中にはやっぱり「きちんとした学校像」がある。だから、それを「壊さなければならない」と思っているし、そうできない自分に対する引け目も戸惑いもある。きちんとしたスーツを着ているせいで、そうは見えなかったけど実は体育教師だった篠崎先生。体育教師としてこうあるべきという理想を追求していたけれど挫折したらしいことが後でほのめかされる(けど真相はわからない)。そして体育教師だから「きちんとした」授業はできない、自分はマックスに「きちんとしたこと」は教えられないという劣等感のようなものを抱えていたのかもしれない。だから余命少ない真田先生から「なぜ人は死ななければならないのか」卒業していくマックスに教えてやってと言われても最初は断ってしまう。彼が着ていたスーツも見せていた熱血教師風の姿も、劣等感や自信のなさを隠すためのものであり、マックスの鉄仮面や鎧と同じだったのかもしれない。

 

 マックスも確かに反抗的ですぐ大声を出したり暴れたりするし、鎧や鉄仮面に身を包んでいたりするけれど、「どこの学校でも手に負えずたらい回しにされた問題児」ってどこが?という感じ。観客からしたら訳の分からないことばかりやっているふたりの先生にいちいちもっともなツッコミを入れているし、文句を言いながらも先生たちの指示に従って畑に柿の種を植えたり、見えないリンゴを助走からの(死んでる助走だけど)ジャンプで何度も取ろうとしたり、かなり素直。地面がマックスの大好物であるカルピスの原液味なんていう、子供だましにもならないような先生たちの嘘に簡単にだまされて「ばーか」って笑われたりもする。だから私もどんどん混乱していく。これ以上ないぐらい独特で自由なふたりの先生。問題児と言われながら至極まともに見えるマックス。朝だったのにあっという間に夜になる一日。黒板はあるけど建物はない学校。校庭、畑、川とどんどん姿を変えていく空き地(それさえも真実はわからない)。だれが、何が普通で自然?普通って何?自然って何?自由って何?そういう疑問だけがずっと続いていく。

 

 何だかんだ言って楽しそうな3人の先生とマックス。でも突然暗転して始まる10年後。SONはなくなったらしいけれど、理由は明かされない。10年後謎の喫茶店をトレンチコート、帽子にサングラスで以前とは全く違ったアンニュイな雰囲気を醸し出して篠崎先生が訪れる。マスターもウェイトレスも好きな席に「自由に」座ってと勧めるけれど、どれも永久欠番だったり壊れていたりして座れない。結局「この席なら壊れていないからどうぞ」とひとつの椅子を示される。自由と言いながら実はたくさんの不自由に規制されていて、自由選択のはずが選択肢は限られている世界。「自然に」選んだように見えて実はそこに座るように指示されている。まるで私たちの現実のような世界。篠崎先生はタバコに火をつけるけれど一口吸っては噎せる。彼にとってタバコは不自然な小道具でしかない。そこに現れるマックス。ひとつの席を篠崎先生に指して「自然に埋めて」と言う。座って、ではなく、埋めて。しかも「自然に」。「その場所がさも当たり前のように」だったかな。ここでもまた指示。その時点でそこに座ることは篠崎先生にとって不自然なことでしかない。そんな言葉選びも服装も髪型もいわゆる演技がかった喋り方も、何もかもが10年前のマックスとは全く違って、不自然。だけど、彼女は所詮劇の中の人なのだから演技がかった喋り方の方が実は「自然」なのか?さっきまでのSONでの彼女の方が「不自然」なのか?何もかもが「自然」でまるでアドリブの連発のように見えた(実はほとんどの台詞も行動も決められたものだったけど)SONでの彼ら。だけど実はそのほうが「不自然」だったのか?何もかもに「意味」があって「不自然」に見える喫茶店。実はそちらの方が「自然」なのか?その「意味」を尋ねかけてそれを聞くことの無意味さに気づく篠崎先生。彼らを見ているうちに私の中でほんの少し見えそうだった「自然」の糸口が透明化していく感覚に陥る。篠崎もマックスも口を揃えて「SONはよかった、あんなに素晴らしい学校はなかった」と過去を振り返り惜しむ。それはまるで過剰に美化しているようにも聞こえる。そんなに素晴らしかった学校が何故なくなってしまったのか。なくなった後彼らはどんな風に過ごしてきたのか。それらはまったく明かされないまま舞台はまたSONのあった「過去」へと戻る。

 

 その後もSONで突然真田先生の余命が残り少ないことが明かされたり、それに対してマックスが「何で人は死なないといけないのか」という疑問を投げかけ、篠原先生が答を出すために正座して黙考している間に季節が変わったかと思うと、また10年後のSON跡地に建てられたというSON記念館に場面が変わって、人々がSONはよかった、SONさえあれば、と惜しんだりしている。場面転換が繰り返されるたび、私自身も「自然」とは何なのか、それは「自由」とどう違うのか、というゴールの見えない螺旋階段をグルグルと上っているような気分になっていく。この辺りの時系列もよく覚えていない。舞台の冒頭で農夫姿の男性が出てきて「SONに行くにはバスに乗ってくねくね行かないといけない、そうやって苦労してようやくたどり着かなければならない」というようなことを言うのだけど、このことを示唆していたのかもしれないと後で思い至った。

 この男性は謎の喫茶店でも非常に哲学的な詩を朗読しているのだけど、残念ながらその内容もあまり覚えていない。子供は生まれたとたん複雑な衣服をまとい、あとは汚れて(不自然になって、とか死んで、とかだったかも)いくだけ、といったニュアンスのことを言っていたのは彼だったか他のだれかだったか。喫茶店ではマックスも不思議な歌を突然歌っていた。晴れた日に借りたあの本を今も返せない、だからまた何も変わらないのに読んでしまう、といった内容だったと思う。変わらずにいることの不自然さ、変わってしまうことを恐れることの無意味さ、それでも何も変わらないと自分に言い聞かせる自由、等々いろいろな意味が含まれていたのかもしれないけれど、まだ私にはわからない。いつかわかるのだろうか。

 

 終盤で篠崎先生が思いがほとばしるように叫びながらマックスに、そして観客に訴えかけていくシーン。2回とも胸に迫ったのがここだった。

 「何もないから何も壊れてない、何も生きてない、どこが真ん中?どこが上?ここは校庭じゃない、空き地でもない、何もない、何もないんだから何も変えることはできない、だけど何でもないわけでもない。いつか死ぬんだ、でもここから始まる。」

 もっとたくさん話していたし、これらも本当の台詞とはだいぶ違うような気がするけれど、私の中に残っているのはこんな感じ。

 本当は私たちが「生きる」のに何の決まりも制限もなくて(社会生活を営む上では存在するけれど)、私たちの人生はただ命がなくなりまた新たな命が生まれるという地球上で無限に繰り返されてきた営みの中の一瞬であって、その一瞬を大切に「生きる」こと以上に重要なことなんてない。それなのに、色々なことで自ら制限をかけたり意味を探したりして雁字搦めになっている私たち。それは人間関係だったり体裁や体面だったりだれかに押し付けられた理想だったり、こうあるべきと思い込んだ理想の自分だったり、人によって違うけれど。こちらの方が、こうある方が「自然」だからと言い訳をしながら実は「不自然」を選び続けているのかもしれない。そういうことを全部ゼロにして、というのは難しいかもしれないけれど、もっとシンプルに考えて行動してもいいことってたくさんあるんじゃないの、始まるから終わるし、終わるから始まるんだから終了は崩壊ではないし開始が必ずしも変化というわけでもない、だから必要以上に恐れることも昔を過剰に懐かしむことも今あるすべてに意味を求めることもしなくていい、その瞬間に自分の中に生まれ出たものが「自然」で、それだけを見つめて進んでいけばいい。これが私が篠崎先生から受け取ったメッセージ。きっと人の数だけ違うメッセージを受け取るのだと思う。

 

 最後、10年後のはずの篠崎先生の前に最初と同じ牛の格好の長谷川先生が現れるだけでなく、亡くなったはずの真田先生まで現れて、「篠崎先生のSONへの赴任を認めます、グレートティーチャー篠崎!」って言うシーンは本当にもう理解不能で、いったいどういう時間軸???ってなった。篠崎先生が「奇跡だ」とか言うから本当に真田先生が行き返ったのかとか、今まで10年後だと思っていたことが実は過去のことだったのかとか。この点については今日までずっと考えていたけれど、一番私の中ですんなり落ち着いたのは遠藤周作『キリストの誕生』に書かれている考え方だった。聖書に残されたいくつものイエス・キリスト伝によると、イエスは十字架で磔にされて絶命したのち弟子たちの前に「復活」したというが、それは何も本当に亡くなった人が生き返ったということではない。イエスが亡くなった後にその死の意味を、彼がだれのことも恨まずに、あまつさえ自分を見捨てたり蔑んだり罪を被せたりした人々を赦してくださいと祈りを捧げて死んでいった意味を、来る日も来る日も考え続けた弟子たち。そして彼らが心からイエスを、彼の生き方を、彼の死の意味を「理解」し、彼を「キリスト(救い主)」としてその言葉を人々に伝え始めたこと、それを「復活」と表したのではないか、という考え方だ。どういうわけでSONがなくなったのかはわからないけれど、真田先生が亡くなってSONがなくなった後もずっとずっと篠崎先生は考え続けてようやく自分なりの答、真田先生が伝えたかったこと、篠崎先生にたどり着いてもらいたかったことにたどり着いたのかもしれない。それを意味するのが真田先生の「復活」なのかなと。そしてそこからが篠崎先生の新しい教師人生、グレートティーチャー篠崎の始まり。これはもちろん私の勝手な考察だけど、色々な考察が許される余地のある舞台だったことは間違いない。

 

 余談だけど、シゲがラジオで「マッド・マックス」を大絶賛していたので観に行きたかったのに、その頃本当に忙しくて行けなかった。でもこの舞台が「マッド・マックス」のオマージュでもあると聞いて、あわてて調べたら幸運なことに近所にできたばかりの映画館で4DXで再演していた。さらに幸運なことに仕事のスケジュールが変わってほんの少し観に行く時間が取れた(というかギリギリ作れた)ので、観劇2日前に観に行ってきた。観なくても舞台の理解度に違いはなかったと思うけど、そのつながりを色々と考えられたおかげで楽しみ方が増えた感じかな。まあそれはまた別のお話。

 

 わからないことはまだまだある。篠崎先生がマックスと話をしようと何度座らせても怒って逃げるマックス。もちろん舞台の大きさには限りがあって、舞台の端より先には行けない。それを観客も舞台のルールとして暗黙の了解でわかっている。でもふたりの先生は「それ以上行けないから声かけてあげて~」と篠崎先生に言う。マックスが怒って先生たちを殴りつけるハンガーのことは「それ、楽屋にあったやつでしょ」と言う。自分たちの世界が劇中のものであるとわかっていることを観客に知らせるための発言。そしてそれらのやり取りを見ている観客。もしかしたらさらにその外側にも視線があって、自分は観客だと思っているけれど、自分たちも見られる存在なのかもしれないという錯覚さえ覚える。すべては広い宇宙の中のできごと。そういう意図を持って作られているのか、はたまた考え過ぎなのか、今の私にはわからない。

 

 と、ここまで色々内容について考えて書いてきたけれど、こんな風にいちいち「意味」を考えることも実はこの舞台の本質からはずれているのだろうとは思う。意味なんて考えなくていい、その瞬間に感じたことがすべて。だけど私はどうしても色々考えてしまう性質だから、私にとってはこれが「自然」なんだろう。

 

  ここからは小山慶一郎さんについて。私はいつも彼のことをありったけの親愛の情を込めて「慶ちゃん」と呼ぶけど、今日はありったけの尊敬の念を込めて、あえて「小山さん」と呼びます(いや、いつも尊敬はしてるけど)。マチネではクリス・ペプラーのいい声を真似させられてたけど、ソワレでは振分親方を要求されて、それは小山さんも素で驚いたみたいだった(笑)前列で観てたから素で出ちゃった小さい声も聞こえるし、笑うのを我慢している顔もばっちり見えたけど、そのキュートなこと!もうほんと小山さんってば、最初から最後までキュートで格好良くて素敵なんですよ。出てきた瞬間からそのスタイルの良さに目を奪われる。スタイルが良すぎて周りの演者さんから異質な程に浮いて見えるから、遠くから見ても一番に目が行く。声も本当によく通るし、日ごろの努力の賜物で一語一語がきちんときれいに聞こえるから、ものすごい勢いの長台詞もすんなり耳に入ってくる。増田さんはドラマより舞台の方が役が憑依するという意味で舞台に向いている人だなあと思っていたけど、小山さんは基本的な部分がすべて舞台に向いているように思う。すらっと伸びた長い足も、足が長すぎて座っているときに足が余っている感じも、立っている時の腰回りの細さも、桜の舞い散る中で正座しているときの姿勢の美しさも、お客さんに向けた甘い言葉(マチネではお客さんに投げチューされて照れたあと「お返しですよ♡」って投げチュー返してたし、ソワレでは「可愛すぎるからじゃないですか」って言ってた…かな?)も、床に身を投げ出して泳いでる姿も、戸惑ってばかりの篠崎先生と自信に満ちた篠崎先生とをしっかり演じ分けた演技力も…って挙げればきりがないほど、小山さんの魅力満載の舞台だった。

 何より、これだけのタイトスケジュールの中、これだけの難しい舞台でこれだけのレベルのものを作り上げたということに感服する。もちろん周りの俳優さん方に助けられた部分も大きかったとは思うけれど、小山さん自身がそれだけのレベルに仕上げたからこそ自分たちも自由にできた、というようなことを久ヶ沢さんがおっしゃっていて、自分のことのように誇らしかった。今回の舞台をやりきったことは小山さんの自信にもこれからの新たな仕事にもつながっていくと思う。ほんと、自慢のリーダー。小山さんは以前はよく「頼りないリーダーだけど」というようなことを言っていたけど、最近あまり言わなくなった気がする。それより最近は「自分らしくやっていく」という自信が感じられると思っていた。「リーダーだからこうしなければならない、こうあるべき」という誰かが作ったリーダー像ではなく、自分が「こうありたい」というリーダー像に向かって着実に進んでいっている(本当は私はどっちの小山さんも大好きだけど)。今回の経験を通して、小山さんが「自然に」自分の目指す場所へ向かってこれからもより一層がんばっていってほしいし、私がここでそんなことを願わなくても、彼は必ずそうしていくという確信に満ちた信頼しかない。

 

*1:内田 樹『こんな日本でよかったねー構造主義的日本論』文春文庫